1月17日

 昨日の続き。


「ねえ。英奈、わたしと一緒に仕事しよう。」
葵ちゃんは頻繁にわたしに電話をかけてきた。
彼女はもうキャバクラの仕事はやめていた。本気で自動車整備工場の後を継ぐつもりらしい。
「話を聞くだけでもいいから。」
というので、何度か夕食を食べながら仕事についての話をした。
 どれだけ、好条件でわたしを雇ってくれるのだろうということばかり気にしていたわたしには、彼女の話は全く魅力がなかった。


 月に30万程の給料で、朝8時から夜9時くらいまで働いてくれという。仕事内容は車の整備の補助。将来的には、もっと経営寄りの仕事をさせたいと思っているけどまずは自動車整備という仕事の現場をしっかりと理解して欲しいという。
 わたしに作業着を着て、オイルまみれになれという。
 わたしを除いて、整備工は2人確保しているという。ひとりは一度退社したはずの、葵ちゃんのお父さんと仕事をしていた30歳くらいの男の人。一時は葵ちゃんの下で働くことを強く拒絶したが、葵ちゃんの手伝いをすることがお父さんへの最大の恩返しになるのだろうと考えを改めてくれたらしい。
 もうひとりはキャバクラ時代に葵ちゃんと親しかった50代の男の人。今は別の整備会社で働いているが、葵ちゃんのためなら今の職場を辞めてでも葵ちゃんの手伝いをしたいと名乗りをあげてくれたらしい。


 そのふたりにもわたしの存在を告げてあるらしかった。松谷 英奈という若い娘が必ず手伝いに来てくれるから、どんなに厳しくてもいい。立派な整備士に育ててあげてくれと。


 葵ちゃんはわたしが協調性の全くない女だと知っていたはずなのに。
 正直迷惑な話だった。わたしはそんなおっさんと一緒に働く気はない。しかも、厳しく育ててもらおうなどとは論外だった。
 だから、はっきりと断っていた。曖昧な態度をとるのも嫌いだったし。


 ある晩中華料理屋でふたりで夕ご飯を食べていた。その日は他愛のない話をするだけだった。もう、わたしのことは諦めてくれたのだと思っていた。


 コース料理の最後のデザートが出てくるまでの間に少し時間がかかった。
「英奈。お願いがあるの。」
 もう、うんざりだ。わたしはキャバ嬢もデリヘル嬢も辞めるつもりはないよ。だから葵ちゃんと一緒に働くことは出来ないよ。


 葵ちゃんは立ち上がった。なに?立ち上がって頭を下げてもわたしの気持ちは変わらないよ。
 逆だった。葵ちゃんは膝をついて額が地面に付くくらい頭を下げた。土下座だ。
「お願いします。不自由をかけるかもしれないけど、わたしが成功するためには英奈の力が絶対必要なの。」


 葵ちゃんは必死で本気だった。でも、止めてくれ。こんなに綺麗な女の子がこんなところで土下座なんてするもんじゃない。葵ちゃんはいつでも胸を張って、自信に満ち溢れた表情をしていたじゃないか。そんな弱々しい姿は似合わない。


「お願いします。どうかわたしを助けてください。英奈と一緒じゃなきゃこの仕事は上手くいかないの。」


 わたしを使って金を掻き集めようとする者はたくさんいた。当時、わたしを囲って、わたしをデリヘル嬢として使っていた男も、キャバクラのオーナーも。
 だけど、こうしてわたしに向かって頭を下げてくるものなんていなかった。なにより、わたしを必要だと言ってくれる人間は初めてだったのだ。


 1か月後、わたしはキャバクラもデリヘルもやめて小さな鞄ひとつを持って葵ちゃんの自動車整備工場を訪ねた。まだ、寝泊まりする場所も決まってさえいなかった。


 キャバクラもデリヘルも辞めるのは滅茶苦茶大変だった。まあ、その話は今度することにしよう。


「英奈は元気だよ。葵ちゃんこそ元気でやってるの?」
「元気だよ。会社のみんなも元気。みんな英奈のことを気にしているよ。元気なのかなって。」
 葵ちゃんの会社は今では10人以上の社員を抱える大きな会社になっている。
「みんなに言っておいて。葵ちゃんの足を引っ張るなよって。葵ちゃんに迷惑をかけるようなやつは英奈が全部しばいてやるからねって。」


 全てを放り投げて自動車整備工場に入社して約9年。わたしは自信というものを片手に、生きがいというものを片手に持つようになった。その他にもわたしを慕ってくれる仲間や信頼してくれる後輩などたくさんのものを担ぐことが出来るようになった。


 どんなに離れていても葵ちゃんは一緒に戦った戦友だ。忘れることなど決してないし、なにか悩みがあるときは葵ちゃんならどう考えるのかなと、わたしの指針になっている。


 今のわたしがあるのは葵ちゃんと相方のおかげだ。一度、親からもらった命を捨てたわたしを生き返らせてくれたのはこのふたりなんだ。


 ふたりともわたしの掛替えのない誇りだよ。
だからふたりとも思いっきり自分のやりたいことをやってくれ。わたしは必ず支えるから。あなた達が産み落としてくれたこの命は、あなた方に尽くす為にあるのだから。

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