1月21日


「出来た!」
 この間の相方と同じ様に大きな声を出してわたしは両腕を上げて大きな声を出した。


 長い時間がかかったが、ようやく「平成という時代を振り返る」ことが出来たのだ。
わたしなりに納得のいく文章が書けた。音楽という分野に視点を絞り込み、わたしというフィルターを通して平成という時代を語ることが出来たことは大きな満足感を与えてくれた。
 この文書はわたしでなくては書けないものだという自負もあった。平成という時代を見つめるのに、音楽というものに目を付けることが出来たのもわたしらしくていいと思った。
 あとは相方のチェックを受けるだけだ。


 書いたコラムをプリントアウトして相方に見てもらう。この瞬間はいつになっても緊張する。わたしが色々考えたことがよいか悪いか判断されるのだから。わたしが過ごしてきた数日がまともなものであったか、ろくでもないものだったかの審判が下される瞬間なのだから。


「うん。いいんじゃない。内容は面白いと思う。」
 この答えは相方が100%わたしの書いたものを認めていないときの言い方だ。内容はいい。では足りないものはなんなのだろう。
「それはお前が自分で考えな。そうでなければ意味がない。」
 相方はいつもそう答える。わたしに明確な道標というものを示してはくれない。


 だけど分かってんだ。わたしの書く文章には知識と表現力というものが大きく不足している。この日記についてもそうなんだ。
 なるべく丁寧に書くことは心がけているけど、読んだ人に刺激を与えるような立派なものは書けてはいない。
 それが、わたしと相方との大きな差なんだ。言葉にしてしまえば一言なんだけど、それを詰めるのには途轍もない努力と経験を重ねないといけないことは分かっている。


 今回の原稿は取り敢えずOKを貰うことが出来た。だけど、このまま相方との距離を縮められないのは悔しくて仕方がない。だからわたしは相方に頭を下げてお願いした。もう一本原稿を書かせてくれないかと。


 相方がわたしに任せてくれた原稿はまたタイトルの決められたものだった。
「モチベーションの保ち方。」
 これは偶然か、それとも運命なのか。モチベーションを保つ方法はわたし自身が一番身に付けなくてはならないことだ。わたしが真剣に考えなくてはならないことをそのまま記事にしなければならないのだ。


 葵ちゃんと自動車工場の経営をしていた頃にはモチベーションというものが途切れることはなかった。だけど、今のわたしは違う。どこか糸の切れた凧のように風の吹くままに流されてしまう傾向がある。なぜ、あの頃の自分にはハリがあって、今の自分にはそれがないのか。見つめ直すにはこれ以上のないいい機会ではないか。


 もう一度あの頃の様に自分で自分を褒めてやりたくなるような感覚を取り戻したい。今のわたしは相方がいなければただのクズなのだ。燃えないゴミなのだ。


 まずはせめて燃えるごみくらいにはなってやりたい。体はとてもくたびれているが、微かに気持ちだけは前を向いている。その小さな灯を消さないように今日からまた、小さな努力というものを積み重ねていかなければならない。

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