2月9日


 今月分のコラムの課題を相方から受け取った。テーマは「いじめ。」


わたしは中学生の頃、同じクラスの女から悪戯をされていた。靴箱の中の靴を捨てられるのはしょっちゅう。机を窓から投げ捨てられるのも茶飯事だった。給食のスープに煙草を投げ入れられたり、机の中に真空パックに詰めた蛙の死体を山ほど押し込まれたこともあった。わたしの親友が大切に育てていた亀を殺されて机の椅子の上に置かれたこともあった。彼女に顔を叩かれたり、首を絞められることも多々あった。これ以上は列挙するのも面倒くさいし、意味がないことだ。
 もうそんなことは過去の出来事なのだから。


 だけど、それを過去のものだと洗い流したのは積み重ねた年月ではないんだ。その日の放課後にはもうそんな悪戯のことは綺麗に洗い流してから家に帰ることが出来たんだ。


 わたしは自分がいじめられているという自覚がなかった。だけど、周りの大人達はわたしだけを被害者に祀り上げた。辛いのなら学校に通うのは週に一度だけでいい。わたしはそんなこと少しも望んでいなかったけど、大人の決めたルールに逆らうつもりもなかった。


 いじめとはなんだろう。おそらく多くの大人や子供達がこの問答を突き付けられてきたことだろう。わたしには正しい答えを出すことが出来ないが、実はいじめの絶対数をいうものは世の中が思っているよりずっと少ないのではないかと思っている。


 いじめには、「いじめていると自覚しているもの」と「いじめられていると自覚しているもの」が存在しないと成り立たないものではないだろうか。


 よく、バラエティ番組で先輩、大御所的な人が若手に「いじめらしきもの」をして、視聴者からクレームや批判を受けたという話をする。
 だけど、若手はそれを「美味しい。」とどこかで思っているはずだ。例えそう思っていなくても、若手はそうやって飯をくっているんだ。
 それを、いじめなどと言う言葉で括るのは馬鹿げていると思う。


 まあ、いい。少し頭を整理してコラムを書こう。わたしには「いじめ」というものを語ることは難しくても「いじめに見える別のもの」を経験してきた糧がある。


 多分、わたしとは形は違っても「いじめに見える別のもの」を受けている若い人は多いんじゃないだろうか。そんな人達にかけてあげたい言葉なら少しはこの掌の中にある。

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