1月27日

 人間がモチベーションを保つとき、もしくはなにか行動を起こすときに善と悪というものを分別してから行動をおこすものもいるでしょう。これは善の行いだから為してみよう。これは悪行であるから為してはならぬと。


 わたしはある人が他人の善悪について評価するのはナンセンスだと思っている。人は自分の快楽だけを徹底して追及して生きていけばいいの。他人のことになんか構っている暇はない。構っている暇がなければ他人に不利益を与えることもないはずなの。
 他人の不利益を求めることは悪である。ただし、それと自分の快楽しか考えないものとは必ずとも一致しない。自分の快楽を追求する過程で人を傷付けてしまってもそれは決して悪ではないの。なぜなら悪意がないのだから。


 悪意無きものの攻撃からは自分の身体をもって守って頂戴。自分の利益を追求するためには、そういった努力は欠かせないものなの。自分の身を襲う攻撃が全て他人の悪意によるものだと思っているならそれはただの被害妄想よ。


 そもそも善とは、悪とはなんだろう。なにを基準に善と悪を分け隔てるのだろう。法律というものを基準にしているのか。法律では人は人を殺めてはいけないとされている。しかし攻撃的意欲ではなく、自分の身を守る正当防衛の結果としての殺人は罪に問われないという矛盾を認めている。そもそも、殺人は重罪であると定めた法律はなにかしらの思想によって法律化されているはずだ。人の命を奪ってはいけないという考え方には根本に「人は命を奪われたくない」と思っているからだと前提をあげる人がいる。でも、世の中には死にたいと思っている人もたくさんいる。
 わたしも含めてね。貧しさに耐えられなくなった人、生き辛い世の中に嫌気が差してしまった人、将来に対する唯ぼんやりした不安に押しつぶされそうになってしまった人、病気で体を動かすことも出来ずにただ自然死を待つばかりになってしまった人。
 
 そういった人を殺すこと、またはその幇助をした人も悪であると言えるのだろうか。おそらく日本の法律ではそれも殺人もしくは同等の罪であると判断されるのでしょうね。ただし一方で死に至る可能性が極めて高い重病患者には延命措置を行わずに、自然な形で死を迎えさせる尊厳死という考え方も認められつつある。
 
 死にたがっている人の自殺を幇助することと、意識的に延命措置を行わないというふたつの事実の間にはなんの違いがあるのだろうか。おそらく死を求めているものに対してどれだけ積極的に死に向かう為の支援をするのかという程度問題であろう。
いえ、支援をしたらダメなのでしょう。なんの行為も下さなければ罪には問われないということなのでしょう。困っている人を見つけたときに、手を差し伸べたものが罪人で、知らぬ顔をしたものが罪のない人間だという判断なのでしょう。


 自分がなにか行動を為そうとするとき、善悪だけでその行動の是非を問うのはやめた方がいい。
 なぜなら、わたし達には善悪を区別する能力など備わっていないのだから。

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