1月10日

 今日は久し振りに昼寝をすることが出来た。今年になってからなんだかピリピリとしている日が続いて、昼間からイライラしている日が続いていたんだけど今日はなんだか気持ちが穏やかで昼間から眠ることが出来たんだ。


 コラムを書くために今わたしは、「平成という時代」を振り返っている。だけどわたしは平成しか知らない世代だ。何月かはよく知らないけど、もうすぐ終わってしまう平成という時代になんの思い入れもない。むしろこれからやってくる時代の方が期待感というかワクワクするものを感じる。このコラムを書き出すにはもう少し時間がかかりそうだ。


 昼寝から目が覚めたら相方に神社に行こうと誘われた。ああ、そうか。わたしは元旦に初詣に行ったが、相方はあの日もパソコンに向かっていて一緒に神社には行っていないんだった。別に神様に会いに行くのは年に1回ではなくてもいいだろう。わたしは喜んで彼の車に乗り込んだ。


 わたしは神様の存在というものを信じている。実際に見たことがあるからだ。わたしがまだ会社勤めをしていたとき、通勤電車の中でものすごく気分が悪くなったときがあった。その頃のわたしは定時に出社することの方が珍しいくらい体調を崩していた。その病気は今でも尾を引いていて、完治したとは言えないのだけど。そう言えば明日は今年初めての通院日だ。明日の診断の結果によってはあなたにもきちんと報告出来るだろう。


 当時わたしは東京で仕事をしていて通勤には地下鉄を使っていた。東京の通勤時間の地下鉄というのは考えられないくらい混雑していて、約40分間もすし詰めの電車で押し合い、圧し合いをしながら会社に向かわなくてはならなかった。
 それは病気を患っているわたしにはとても耐えられるものではなかった。だから、通勤時間を大きくずらして会社にいくしかなかったのだ。


 通勤ラッシュを1時間ずらしても、地下鉄は座ることが出来ないくらい混んでいた。だけど、その日は珍しくわたしの立っていた目の前の席が偶然空いて、わたしは座って会社に向かうことが出来た。目を瞑って気持ちを落ち着かせるために静かに深呼吸をしながら地下鉄に揺られた。そのときに神様はわたしの中に降りてきた。神様はわたしの頭か胸の中に降り立つものだと勝手に思い込んでいた。だけど、神様が降り立ったのはわたしの腹の中だった。神様はわたしの想像していた姿とは全く違っていた。なんだか小学生の頃、顕微鏡で見た生物みたいないでたちをしていた。わたしの腹の中で
「大丈夫。もう少しで気分がよくなるよ。」
それだけ呟いて去っていった。


 なぜそれが神様なんだって分かったのかって?
だって、わたしがそう確信したんだもの。理由はないけどあれは神様で間違いないんだって。


 だからわたしの思い描く神様というのは微生物みたいな姿なのだ。そんな姿の神様に改めて、今年こそはなにものかになれるようにまた祈るんだ。


 相方と初詣にくるのはもう7回目くらいになると思うが、毎年神社に入るときに怒られる。神社の道の真ん中を歩くなと。そこは神様が通る道であり、人間ごときは端っこを歩かなければならないんだと。それならば、と思って端っこを歩こうとすれば今度は、鳥居をくぐる前に神様に一礼してから入れと文句を言われる。
 うるさいなあ。神様くらい立派な存在はそんな細かいことは気にしないよ。そう思いながらも相方のいいつけを守ってわたしが先に鳥居をくぐると、相方は一礼もせずに神社のど真ん中を悠然と歩く。
 思わずわたしが「おい!」と声をかけると、
「神様もベタは好きやで。」
と笑顔を見せる。


 相方はいちいちボケるから疲れる。全ての会話はフリで始まり、ボケを経て、突っ込むことで1セットなんだと考えている。
散々、神社での歩き方をフッておいて、自分はその禁を破るというボケをかまさないと気がすまないらしい。


 こういうときの相方は調子がいい証拠だ。
 あんたは今年もいいことしか待っていないよ。と突っ込んでやりたいが、ここ数年相方に幸せなど訪れてはいない。いくら陽気に振る舞ってもこの人も心はすごく病んでいるんだ。可哀想な男だ。
 色んな意味でね。

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