1月15日

 よく性癖をSとかMとかで表すことがあるけどわたしは一体どちらなのだろう。相方の影響でなるべく自分に厳しく、自分を追い込むようには心掛けている。それが気持ちいいと感じることもよくある。自分を追い込んでなにかをやり遂げた日の方が、なにも成果が上がらなかった日よりずっと満足してその日を終えることが出来る。
 わたしも相方と同じく、自分を痛めつけることが好きなのだ。ということはわたしはサディストなのだろうか。それとも追い込まれる、攻め続けられることが好きなマゾヒストなのだろうか。


 どうにもわたしはSとMの両方を兼ね備えているのかもしれない。


ただ、わたしは自分に対して厳しくしたいし、自分に追い込まれると気持ちがよくなるだけで、相手が他人となったらそうはいかない。
 基本的には誰かを追い込むことは大好きだ。わたしのことを恐れて、怯えながらなにかをやり遂げようとする他人の顔を見るのがとても気持ちがいい。そいつの苦しみも辛さも全てわたしの手の中にあるという感覚が気持ちがよくて堪らない。
 だけど、もっと気持ちがいいのはわたしが厳しく当たった相手にちょっとだけ優しさを見せてやったときに、そいつの見せるホッとした顔、安心した顔を見るのが快感で仕方ない。
 さらに気持ちがいいのが、安心しきったそいつを再び奈落の底に突き落としたときのあの感じ。わたしにすがってきた者を絶望に叩き落としたときが一番気持ちがいいと感じてしまう。
 相手を突き放して、一度だけやさしい態度を見せてやり、その上でもう一度突き飛ばす。これがわたしの至極のメニューだ。


 イカレているのは自覚している。ただ、それが快感であることには変わりがない。もう矯正することの出来ない歪んだ性癖なのだ。


 ただし、そんな性癖に新しい快感を植え付けてくれたのが相方だ。わたしは相方が怖くて仕方ないが、実はあの人に責められるのは嫌いじゃない。あの人の持つ圧迫感が気持ちよいのだ。
 まあ、昔からそうだったのかと聞かれれば答えは「No」だけど。昔はあの人から逃げることばかりを考えていた。少し慣れてきたら、どうやったら怒られないかを考えるようになった。そして今では怒られたいとも感じる様になったのだ。怖いよ。怖くて仕方がないけど、あの圧迫感が気持ちいいのだ。


 多分、あの人はわたしを殺しはしないからだろう。わたしは人を傷付ける為に嫌がらせをするが、あの人は人を活かす為に怒ってくれているのが分かるから気持ちがいいのだと思う。


 どちらにしても、わたしの性癖はろくなものではない。あまり男にモテないのも自分で納得している。


 だけど、ベッドの上ではSもMも兼ね備えているからいい仕事はするよ。夜のわたしだけは結構男にモテるものなのだ。

1月14日

「英奈。」
 人に名前を呼ばれるとビクッとしてしまうのはわたしだけの特性なのだろうか。わたしは人に名前を呼ばれることが怖い。いや、正確には相方に名前で呼ばれることが怖いのだ。相方は普段はあまりわたしの名前を呼んだりしない。名前を呼ぶときはなにかわたしに言いたいことや伝えたいことがあるときだけだ。だから相方に名前を呼ばれると背筋が伸びる感じがする。相方以外の人間に名前を呼ばれても同じような反応をしてしまう。相方のことを思い出すからだ。


 前にも言ったが、うちの相方は怖い。こんなに怖い人間を他には知らない。なにがそんなに怖いのかというと決して自分というものを曲げないからだ。自分が正しいと思ったらそれを貫き通す。その姿勢は異常だ。社会のルールは平気で破るくせに、自分の決めたルールというものは決して破らない。自分の決めたことが絶対に正しく、それに従うことが自分のやるべきことだと信じて疑わない。


 決して自分に妥協しないといえば響きはいいかもしれないが、それを邪魔するものも決して許さないのだ。


 相方がわたしの名を呼ぶときは、彼のスイッチがONになっているときだけ。だから、名前を呼ばれると思わず背筋が凍るのだ。
「英奈。お前なんか勘違いしとるんと違うか。」
 怖い。わたしがなにをしたというのだろうか。自分で心当たりがあるのならこんなに震えたりはしない。わたしでは感じ取れないなにかを指摘されるから、こんなに胸が痛くなるのだ。
「そんなに温い時間を過ごしてばかりいて、いいものが書けると思っているんか。」
 そんなにわたしはぬるま湯に浸かっているように見えたのだろうか。自分では気が付かないけど、この人がいうのならそれで間違いないのだろう。
「ごめんなさい。」


 自分で自分を律するというのは思っている以上に難しく、厳しいことなのだ。誰だって自分には甘くなる。このくらいでいいだろうと自分のハードルを低くする。
 相方にはそういう部分がほとんど見当たらない。いつもいつも自分を追い込んでいる。だから、毎日のようにゲロを吐いたりする。自分に満足する日はほとんどないという。そんな人生気持ちのいい人生といえるのだろうか。幸せな人生を歩んでいると言えるのだろうか。


 わたしには未だに分からない世界だけど、わたしの送っている日常は幸せで満足のいくものではないことくらいは理解している。

1月13日

 平成という時代を振り返る為に、平成に売れたCDを借りようとレンタルショップに行ってきた。借りたいなと思う曲はある程度絞ってある。出来る限り絞り込んだつもりだが、その数は20曲をゆうに超えた。もちろんその中にはゴリラが歌うあの曲も入っている。
 レンタルショップに着いた途端自分の浅はかさに気付かされた。レンタルショップにはアルバムしか並んでいないのだ。考えてみれば当たり前の話だろう。シングルCDを全部並べていては、店の棚がいくら大きくても全部並べることは出来やしない。しかし、わたしは聞きたいと思っている曲のタイトルしか頭に入れてきていない。その曲がなんていうアルバムに収録されているのかなんてことはまるで分かっていないのだ。しかも、ゴリラに至ってはおそらくアルバムすらも出していないだろう。ノリと企画で曲を出しているのだろうからアルバムなんて存在しないのだ。仕方ない。あの曲はYoutubeで何度も聞き返すしかないだろう。


 ダメだ。わたしの聞きたい曲を探し出すことがこんなに労力を使うものだとは思っていなかった。わたしは実はあまり邦楽には詳しくない。どの曲がいつ頃リリースされてなんていうアルバムに収録されているのかなんてまるで知らないのだ。もう諦めよう。ゴリラの曲に限らず、聞きたい曲は全てYoutubeで探して聞くことにしよう。
 背中を丸めてすごすごとレンタルショップを後にした。


 部屋に戻ってから、Youtubeの動画をダウンロードしまくる。いい曲ばかり聞いているとこちらのテンションもどんどん上がってくる。それに比例してパソコンの音量もデカくなってくる。最初は相方に怒られるんじゃないかなと心配していたけど、相方もノリノリで聞いているようなので特に音量については配慮する必要はなくなった。
 
 むしろ、こっちが配慮してもらいたいくらいだ。相方はテンションが上がりまくってパソコンから流れる音量以上の声で歌い続ける。よく、そんなに色々な曲が歌えるもんだねと感心するくらいに。
 相方の歌い方にはある特徴がある。例えば、ゴリラが歌っていた名曲を相方が歌えばこんな感じになる。


「あ、優しさに触れることより振りまくことで。あ、ずっとずっと今までやってきた。あ、それでも損したなんて あ、思ってないから今夜も あ、なんとか自分で自分を守れ あ、wow wowwar wowwar tonight  あ、wow wowwar wowwar tonight」
 なんだか余計な一音が入るのだ。相方は歌が下手くそなわけではないが、その歌い方だとなんだか曲を馬鹿にしているように聞こえて仕方がない。


 気の弱いわたしにはそれを指摘する勇気もない。だけど、いつまでもそれを聞いている忍耐力もない。だから、今日のところは10曲もダウンロードすることも出来なかった。


 それでも相方のひとりカラオケは止まることをしらない。思いつく曲を勢いに乗って歌い続けている。もちろん、この人の独特の歌い方で。


 誰か助けてくれ。このままではわたしの頭に残っている名曲が全て相方バージョンに書き換えられてしまう。
 曲を聴けば思い出す美しいはずの思い出もなんだか馬鹿馬鹿しいものになってしまうのだ。

1月12日

 どうにもテンションが上がらない。憂鬱感は日増しに大きくなっているようだ。いけない。そろそろコラムも書き始めないと。
 
「平成という時代を振り返る」と見出しだけ書き込んだパソコンの画面をじっと見つめながらどんな記事を書こうか頭を出来る限りフル回転させる。
 ネットで平成に起こった色々な事件を調べてみたけど、色々と大きな事件の多い時代だったんだなあと思い知らされた。オウム真理教関連の事件、9・11のテロ事件、東日本大震災、サカキバラセイト事件。本当にたくさんの事件があったのだけど、なんだか自分とはあまり係わりのない事件だという気がしてならない。これが風化というものではないだろうか。事件や災害を忘れないことが大切だ、そのことが新しい事件や災害を防ぐ一番大事な予防策だなんていうけれど、果たして本当にそうなのだろうか。警察関係者なんかにはそれが当てはまるかもしれない。過去の事件を参考にして、それを予防する仕組みつくりとか組織つくりをすることは有意義なことかもしれない。でも、わたし達一般人はいったいなにが出来るというのだろう。
 
 どうにも、平成に起きた事件だけを調べても平成という時代を語ることは出来ないような気がしてきた。事件や災害を振り返って、いや本当に激動の時代でしたね。なんて、つまらないことは書きたくないし。
 
 そうだ。いっそのこと芸能とか文化とかに的を絞ってみたらどうだろう。ときどき歌番組なんかで昭和の名曲と平成の名曲を比べる番組なんかをやっている。聞き比べてみれば確かに全然違う。流行とかその時代に受け入れられやすい曲の感じとか色々あるのだろう。平成にバカ売れした曲が昭和の時代でもそんなに売れたとも思えない。だけど、昭和の名曲は平成にリリースされたとしても、ある程度売れたのではないかと思う。神田川とかルビーの指環なんかは、餓鬼のわたしが聞いてもいい曲だなあと思う。いや、違うな。いい歌だなあと思うんだ。曲という視点で見てみれば絶対に今の音楽の方がクオリティは高いと思う。低い曲もあるけど。


 うん。なんだか方向性が見えてきた。わたしも音楽は好きだからこれなら気持ちのこもった面白い文章が書けるのではないだろうか。わたしの小さな脳に入りきらない程名曲というものはたくさんある。まずは昭和と平成のヒット曲の中でわたしの好きな曲をリストアップしてみようと思う。


「平成の一番の名曲ってなんだと思う?」
 一応相方の意見も参考にしてみよう。わたしだけの好みでリストを作っても大分偏ったものになってしまうだろうから。
 相方は迷うような素振りも見せずに歌を口ずさんだ。
「優しさに触れることよりふりまくことで ずっとずっと今までやってきた それでも損したなんて 思ってないから今夜も何とか自分で自分を守れ」
 あ~。なんだっけその歌。知っているはずなんだけど曲名も歌っている歌手も思い出せない。
「流れる景色を必ず毎晩見ている うちに帰ったらひたすら眠るだけだから ほんのひと時でも自分がどれだけやったか 窓に映ってる素顔をほめろ」


 思い出した。マジか。あんたマジで平成の1曲にその曲を選ぶのか。いや、いい曲だとは思うよ。馬鹿みたいに売れたしね。だからと言ってもね。他にもあるじゃん。平成と言えば、みたいな曲が。
「じゃあ、例えばなに?」
 そう尋ねる相方に返事が出来ない。あれ?安室ちゃんとかさ、あゆとかさ、ミスチルとかさ。アーティストの名前はいくらでも出てくるのだけど曲名が出てこない。
 マジか。平成を代表する1曲はゴリラ顔の暴君が歌うあの曲なのか。
 音楽とは恐ろしい世界だ。どれだけ心血を注いでも、ゴリラに勝てないこともある厳しい世界なのだ。


 今一度、ゴリラの歌う名曲をYoutubeで見てみた。確かにいい曲だ。なんだか目頭が熱くなるくらいに。他のゴリラの曲も聞いてみたいとは思ったけど、Youtubeに出てくる関連動画にはおっさんがケツをしばかれている動画ばかりだった。


 やっぱり平成という時代はどこかが狂っている。

1月11日

 今日は今年初めての通院日だった。わたしと相方は似たような病気を抱えていて同じクリニックに通っている。
 わたしは統合失調症、相方は双極性気分障害だと診断されている。
 わたしはこの病名を与えられてからもう11年になる。症状はよくなったり、悪くなったりの繰り返し。特に冬のこの時期は病状は悪化する。年末からずっと調子は悪かった。もっと気分が明るければもっと明るい日記を読んでもらうことも出来るのに。


 通院しているといっても薬をもらいに来ているだけといっても過言ではない。別に医者にあれこれと症状を話して、なにか改善策を見出そうという治療ではないのだ。11年も病院に通っていれば、医者がこの病気に対してなにか力になってくれるものでもないと身体をもって自覚している。
 自分の力で少しずつ回復していくしかないのだ。他の誰の力も役には立たない。たとえそれが相方であってもだ。


 今、わたしを診てくれている医者もその辺のことはよくわきまえていてくれている。だから余計なことは聞いてこない。わたしの話を聞いて、処方する薬を少し増やしたり減らしたり調整するだけだ。
 今日は寝る前に飲む抗鬱剤を一錠追加された。確かに鬱っぽい日が続いていたから、有難い判断だと思う。


 わたしはもうこの病気から一生逃れることは出来ないものだと認識している。少し回復したり、薬を減らしたりすることはあったとしても完治することなどないだろう。そんな期待もしていない。別にそれは悲しいことでも悔しいことでもなんでもない。ただ辛いだけだ。辛いだけなら我慢も出来る。いや、最近では辛いとさえ思わなくなってきた。これがわたしの体質なのだ。生まれてきた子供がアレルギーを持っているのと同じ。わたしも生まれてきたときからそういう体質だったのだ。


 今日はあまり気分が乗らない。だから日記もこんなしょうもないことしか書くことは出来ない。日記とはそういうものだろう。わたしが調子が悪いときは日記も調子が悪い。
 わたしは自分の感じたこと、考えたことしか日記に書くことは出来ないのだ。後々読み返したときに、「ああ、この日は体調がすぐれなかったんだな。」と分かるように自分に素直にかかなくてはいけない。


 今、夜の8時半。明日は今日よりはいい日になるだろう。なって欲しいと思いながら今日はもう布団に入ることにする。